なぜ幸せな会社を目指すのか?

仕事

私は経営顧問として、その活動目的を「幸せな会社をつくること」としています。最近はビジネスの世界でも幸福をテーマにした活動が脚光を浴びるようになっており、「幸せな会社をつくる」と言っても、あまり違和感はないことでしょう。

しかし、私がなぜ幸せな会社を目指すのか? この重要な哲学についてご理解いただきたく、少し長くなってしまいますが、私のストーリーを以てお伝えしておきたいと思います。

私が抱き続けてきた違和感

私が銀行員として社会人生活をスタートさせた1992年、それは池井戸潤氏のメガバンクを舞台にした人気小説(ドラマ)の主人公半沢直樹が入行した数年後にあたりますが、今で言うハラスメントが横行していて、私も例外ではなくいきすぎた上司に遭遇しました。それでも辞めずに続けたわけですが、質や程度の差こそあれ危ない人というのは今でも一定の確率で出現していて、しかも結構偉い人だったりするわけです。

何でそうなっちゃうのだろうという疑問を抱くのですが、共通するのは「組織>個人」の発想です。個人が組織に尽くせば、結果として個人も報われるという理屈なのでしょうか? 組織に適応してより早く高い地位と年収を手にすることが良い人生だと考えているようです。しかし、やってもやっても増えていくノルマ、デジタルで効率化するはずがむしろ増えるクソ仕事、コンプラの御旗で増殖するルールに縛られ、何かみんな苦しそうに(またはフリをして)働いている、言い出せば山ほどあるそんな違和感に対して、いつしか自分が理想とする経営をしたいと思い始めていました。

私は元々、人の行動を経済合理性で規定したり、法で縛ることに限界を感じており、一人ひとりの心理に着目すべきとの意識が強かったのですが、これは大学時代に劣等生ながらも社会心理学を専攻したことが底流にあるのかもしれません。

そんな私にとって最大の転機は、2013年、44歳の時に取引先に業務出向したことです。当時まさに半沢直樹がTVドラマで注目されていた時だったので、「出向」というと周りからは哀れみの目で見られたものです。ですが、行った先は大阪にあるパワーエレクトロニクス系のメーカーで、太陽光発電に関連した自社製品がFIT法の追い風に乗って大躍進、当時の東証一部にまで上り詰めました。その急成長した時期に経営陣に加えてもらえたことは私にとって本当に幸運だったと思います。結果的に2年で銀行に戻ったのですが、この話だけで本が一冊書けるくらいの劇的な日々でした。そこで一度は社長になることを志し、以後、銀行目線から経営者目線での思考に転換、加えて過度な資本主義の追求こそが私が抱き続けてきた違和感の元凶だと気付くきっかけとなる体験になったのです。

限界を迎えた資本主義

その気付きを裏付けるかの如く私に衝撃を与えた書籍が、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』です。そこには、原初の狩猟採集民が豊かで健康に暮らしていたことが書かれており、その後の文明は人類を幸福にしたのかとの問いかけがあるのです。科学技術の発展によって未来は現在よりも豊かになると信じ込まされてきた私が、ようやく立ち止まって考えることになります。

そして、この長年のモヤモヤをクリアにしてくれる文献に出会っていきます。山口周氏の『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』がその一つです。現在のVUCA(不安定、不確実、複雑、曖昧)な世界の状況においては、長いことビジネスパーソンにとって必須であった論理的、理性的な情報処理スキルは限界を露呈し、また社会システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生している。そして全地球規模での経済成長が進展したことにより世界中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつある。そんな転換が起こりつつある今、「生産性」「効率性」といった外部のモノサシ(サイエンス)ではなく「真・善・美」を内在的に判断する美意識という内部のモノサシ(アート)を鍛えることの重要性を説かれています。

後に『ニュータイプの時代』という本も出されていますが、ガンダム世代でもある私にとって、まさに人類の意識が進化すべき時に来ていて、しかもこの年齢でもニュータイプに覚醒できるかもしれないと思うと勇気づけられますね。

また、広井良典氏の『科学と資本主義の未来』こそが私の活動のテーマになっていると言っても過言ではないかも知れません。広井氏は二〇〇一年に出版された『定常型社会』以来、経済の拡大、成長を絶対的な目標としなくても十分な豊かさが実現されていく持続可能な福祉社会(=定常型社会)を一貫して提唱されています。近年、その考え方がより現実的となってきた中での総括といえるこの本において、資本主義の定義を市場経済における限りない拡大、成長を志向するシステムとし、その場合、拡大、成長よりも持続可能性に価値を置いた社会システムを構想すれば、それは既に資本主義ではないとする点が私には画期的でした。前者の「スーパー資本主義」と後者の「ポスト資本主義」のせめぎ合いがどこに向かうべきかを私たちに問うているのです。

ポスト資本主義の指標は幸福である

ご紹介した山口氏、広井氏両者ともに、未来の方向性の根拠としてマズローによる「欲求の階層理論」を再評価しており、世界的な経済成長により、土台とも言える物的な欲求が満たされてきた状況においては、より上位の心理的な満足を求めるように進化していくのは自然な流れであるとしています。ここが重要なところで、従来の資本主義が「利潤の追求」を指標としているとするならば、ポスト資本主義と言えるものは「心の満足=幸福」が指標になると私は解釈しています。

しかし現実は必ずしもそんなに綺麗な話でもなく、資本主義におけるビジネス界で個人のココロが着目されるようになったのは、グローバルにモノが溢れる時代に巨大な自己実現欲求の市場がフロンティアとして出現したという側面が大きいと考えられます。また、事業経営の観点からは、従来のモーレツまたは理詰めの発想ではイノベーションは起こせない上に、世界的に(労働)人口減少時代に突入する中で人材確保の観点から個人の自己実現を尊重する、といった功利的な動きとも捉えられます。

何が言いたいのかといえば、私たちの進化としてのポスト資本主義の時代がやってくるのか、スーパー資本主義のバージョンアップが続いていくのか、それは未だ分からないということです。

パラダイムシフトには時間がかかる

ここで少し横道にそれますが、そんな生温い話を許さないのが斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』でして、CO₂排出による気候危機によって文明が崩壊しようとしているときに、CO₂排出を止めるためには果てしない経済成長を目指す資本主義をやめ、脱成長コミュニズムに移行しなければならないと説いています。未来の在り方の答えを”マルクス”の深読みによって見出し、文明の維持のためにはこの一択だと結論付けていまして、資本主義、民主主義、先に紹介した広井良典氏の「定常型社会」さえも否定しています。

実は私も斎藤氏が構想する世界観に共感するところは多く、密かに応援してはいるのですが、ベストセラーとして大注目されてから5年くらい、残年ながら今のところこのような動きは見えてこないどころかむしろ遠ざかっているようにも見えます。

仮にこの説が正論だとしましょう、それでも人が動かない理由は、それが正論であっても現実的であるとは受け入れられないからでしょう。いいか悪いかは別として資本主義や民主主義の中で生きてきた人々あるいは世代にとって、違う世界へのパラダイムシフトを説かれても、時間がかかるし実現するかもわからない中では、すぐに行動に移すことなどできないのです。加えて、社会システムを変革する大義を気候危機としている点でも、心理学的な正常性バイアスや集団バイアスにより、すぐに動こうとはしないものです。

私の選択

さて、回り道をしましたが、このような思考の経緯を経て、私はポスト資本主義としての定常型社会の考え方を価値観として活動していく方針です。その是非についてここで論ずるつもりはありません。私のこれまでの人生、経験を踏まえた感性としてそれが正しいと思えるからです。

そう考える以上、従来の資本主義が「利潤の追求」を指標とするのに対し、私はポスト資本主義として「幸福」を指標として活動することが当然であると言えるわけです。しかし、こんな回りくどい説明をするまでもなく、もっとシンプルに人間として幸せを追求するのは当然であり、生活の相当な部分を占める仕事や職場が苦渋の場ではなく幸せな場であるべきというのは至極真っ当なことだと思いますね。

最後に、誤解のないように整理しておきたいことがあります。それは、最近ではビジネス界でも「幸福」への取り組みが進んでいますが、それには二種類の人がいるということです。

一人が、あくまで従来の資本主義のバージョンアップとしての「スーパー資本主義」のために「幸福」というテーマに取り組む人で、もう一人は「ポスト資本主義」として「幸福」そのものを追求する人です。前者は、「利潤の追求」を目的として「幸福」をその手段とするのに対し、後者は「幸福」を目的として「利潤の追求」はその手段の一つに過ぎないという違いがあります。

私は、後者の立場で活動するとしているものの、前者を否定することはしません。何しろ、つい最近まで私自身も前者であったように思いますし、目的はさておき「幸せな会社」をつくるという点で合致するのであればそれでいいし、現時点では前者が多数であるという現実も受け入れるべきだからです。

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